『二項動態経営 共通善に向かう集合知創造|野中郁次郎/野間幹晴/川田弓子』
向かう先を規定したり、価値判断の基準になる共通善は、『データ主導の人材開発・組織開発マニュアル|南雲道朋』で言われてる「第5の軸」と相似を感じる
二項動態という点で、『両立思考 「二者択一」の思考を手放し、多様な価値を実現するパラドキシカルリーダーシップ|ウェンディ・スミス、マリアンヌ・ルイス』や『パラドックス思考 矛盾に満ちた世界で最適な問題解決をはかる|舘野泰一/安斎勇樹』と 比べて読みたい
二項動態経営 共通善に向かう集合知創造 (日本経済新聞出版)
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Highlights & Notes
> 壮大な共通善の実現に向かって、目の前の動く現場・現実・現物の流れのなかで、文脈に応じて時空間を共創し、新たな意味や価値を生成する、人間たちのダイナミックで社会的なプロセスが経営である。
> 一人称である個人の思いを、他者との二人称の共感を媒介に、全身全霊で徹底的な対話を行って、「われわれの主観」をつくり、さらにあらゆる知を自在に総合して三人称の集合知にしていく価値創造プロセスが、イノベーションである。
> 形式知である科学や理論の源泉は、無意識も含めた暗黙的な主観にある。三人称の客観から出発しても新しい知は生まれない。
> 本書は、「二項動態経営」という組織的知識創造理論における新たなコンセプトの発信を意図している。『失敗の本質』の刊行から 40 年。当時、示した教訓は「過去の成功体験への過剰適応を避けよ」であった。組織には慣性が働き、ともすると変化を嫌う性質がある。しかし、組織内外の環境変化の波を乗りこなし、あるいは自ら変化を創造し、無限に自己変革を志向する組織でなければ生き残れない。本書では、自己変革する組織の本質が、二項動態による集合的な実践知創造にあることを論考する。経営活動において直面するさまざまな矛盾やジレンマを「あれかこれか」の二項対立(dichotomy) で切り抜けるのではなく、苦しくても「あれもこれも」の二項動態(dynamic duality) を実践し、新たな価値を創造することこそが、過去の自己を超えていくただ一つの道なのである。
> 最初の日本語訳で「終身雇用」と訳された英語が実は lifetime employment ではなく、〝lifetime commitment(生涯にわたるコミットメント)〟である点は 刮目 すべきことであろう。雇用という表現をアベグレンは使っておらず、初版の翻訳を手掛けた経営学者占部都美の意訳であったことを、経営学者加護野忠男は指摘している*3。
> 情報処理モデルのように、人間には限定合理性があるという前提が置かれると、組織全体としての認知能力を向上するために、標準化された手続きやルールであるルーティンが、組織に埋め込まれる。
> ワイクは、「組織というものはオーバーマネジメントになりやすく、干渉の不足よりも過剰こそが多くの組織上のトラブルの因となっている*9」とも指摘した。環境に適応した組織は、将来、過去の適応によって環境不適応を起こしてしまう。自己変革を阻害するのである。
> 組織には慣性や惰性が働く。経済学や経営学では「経路依存性* 10」などといわれ、これまでの仕組み、事象、意思決定に依存しすぎて、新たな取り組みが阻害されることを表す。変えようとする力には、反作用で抵抗勢力が生まれることとなるのだ。
> 内外環境に受け身で適応しようとするのではなく、自ら変化を創造する主体としての組織の原理を明らかにしてきた。
> ワイクは、「自らについておよび自らの考えるところについての意味形成(著者注:センスメイキング) が、変化に対応する能力を左右する(中略) 新しいイメージ─多様な技能や感性がしみこんだイメージ─で自らをいつも見ている組織は、それゆえ、状況が変わったときに対処できる」と述べている* 12。
> われわれは、環境変化の只中で、組織の自己変革を可能にするのは、経営における「二項動態(dynamic duality)」の実践であると考える。組織のあらゆるレベルのメンバーは、動く現実の流れのなかでさまざまな矛盾やジレンマに直面する。その個別具体の文脈のなかで、共通善に向かって、「あれかこれか(either / or)」の二項対立(dichotomy) ではなく、「あれもこれも(both / and)」を追求する二項動態的な集合「実践知」創造を通じて、葛藤を超えて「より善い」をめざし、新たな価値創造への道を他者とともに切り拓くのである。
> リスタートプラン導入以前のバンダイナムコでは、他の多くの会社と同じように、事業部ごとに利益を最大化することが求められた。たとえば、業務用ゲーム機の分野で、ある特定のキャラクターが大ヒットしたとしても、その成果が家庭用ゲーム機の分野で十分に活かされることはなかった。しかし、IPを主軸とした組織に再編したことで、従業員自らが、どうやって横連動を行うべきかを考えるようになった。すなわち、新しい価値を生み出す知のエコシステムの創造を促すような組織へと生まれ変わったのである。
> 川口はこのユニット統合を「シェアハウスモデル」と名づけている。「2つの事業を1つの〝母屋〟にいれ、目標を一緒にしたのです。事業の特徴が異なるので、それぞれの〝個室〟はあるのですが、空いている時間に共有部分の〝リビング〟に降りてきて、一緒にこんなことができないかなど、おしゃべりしてもらうというわけです* 18」。これは明らかに、事業の方向性や保有技術の相互作用を高めることを意図した組織改編である。長年、遠くて異質な存在であった玩具事業とデジタル事業をユニット統合することで、連携を意識する機運が醸成されるようになった。
> 現在のバンダイナムコでは、異質同士が集まり、他者の主観と全人格的に向き合った対話が行われている。相互に無心になり徹底的な議論をし尽くすことで、「われわれの主観」が創り出され、結果として、集合的に本質を見極められるようになる。それが新しいコンセプト創造につながっているのである。
> 敗者復活の風土を象徴する言葉として、当時のバンダイでは「散らかし屋」と「片づけ屋」がたびたび用いられた。「散らかし屋」は、アイデアや情報をもとにリスクに挑戦するので、ときには失敗することもある。「片づけ屋」は、事業が成立するかを冷静に見極め、挑戦する人の暴走を防ぐ。組織にはその両者が必要だという訳である* 23。
> バンダイナムコでは、常日頃から、頻繁に組織改編を行っている。しかも業績のよい部署ほどその対象になるというから興味深い。組織を進化させるには、組織を絶えず不均衡にしておく必要がある。ゆらぎといってもよいだろう。そうしたゆらぎがあるからこそ、二項が動いて変容が生じ、新たな道が見つかる可能性が広がる。
> アイリスオーヤマの企業理念は、石油危機の際に大阪工場を閉鎖しなければならず、仙台工場への異動ができなかった従業員をリストラしたという苦い経験がもとになっている。
> いる。また、成長と利益と社会貢献、良い会社と良い社員、顧客の創造と市場の創造、あらゆる要素を関係性で捉え、その循環を、仕組みによって実現しようとしていることもうかがえる。
> パーパスとしての企業理念は、日々意味づけしなければ、神棚に飾られ、単なるお題目になってしまう。アイリスオーヤマでは、毎週月曜日、大山晃弘社長ら経営層が全社員に向けて話す「朝礼」を実施し、全国の主要拠点にリアルタイムで中継する。大山社長らが話した内容は、年末に1年分まとめて全社員に配布される。記録に残るので話すほうも真剣に準備する。それを毎週行っている。経営層が持っている問題意識や思いをタイムリーに伝えていくことは、パーパスを現実の文脈において意味づけていくことでもある。
> 非常にオープンな場となっており、判断基準がブラックボックスにされることはない。会議では、必ず担当者に対して、大山社長から何がよかったのか、却下された場合、なぜ却下されたかが直接生の言葉で伝えられるため、先述したSEGの示す、シンプルさ、値ごろ感、高品質という、ともすると両立するのが難しいコンセプトの意味するところ、経営層の意思決定の基準が社員に浸透していく場としても機能している。
> 暗黙知こそが、自らの経験を能動的に転換した形式知を支える、語りえない部分である。そして、形式知に意味を与える。図1-1に示したように、暗黙知とは「いま・ここ」の文脈において動く知であり、主観的であり、身体的でアナログ的であり、感性的でアート的だ。言葉で表現できないような勘とかコツとかも含まれる。一方の形式知は、時空間を超えて移転できる知識であり、明示的で、客観的で、論理的・科学的なデジタル知である。
> 重要なのは、暗黙知と形式知を関係性で把握することである。その関係性は、海上に浮かぶ氷山でたとえられる(図1-2)。水面下の暗黙知と水面上の形式知は、独立して存在しているのではなく、連続体でグラデーションのようにつながっている。そして、水面下で見えない暗黙知の質量の豊かさが、顕在化している形式知の質量を決める。起点となる暗黙知を豊かにしない限り、水面上の見えている形式知はどんどん崩れて溶けていってしまう。
> 組織的知識創造理論は、いままで議論の俎上に載せていなかった、知の源泉としての暗黙知に光を当てた。さらに、新たな価値創造としてのイノベーション(単なる技術革新ではない) が「暗黙知」と「形式知」の相互変換によるものであることを説明した*4。これまで形式知レベルでしか語られてこなかった経営学において、暗黙知という認識論の概念を新たに取り入れ、なおかつ、暗黙知と形式知の関係性をモデル化したことは画期的であった。
> 他方、科学的に分析できる知覚のプロセスでは、モノから反射した光が目に入り、感覚器官である目で処理され、神経を通して脳に電気信号が伝わる、いわば情報処理プロセスである。このプロセスは、科学的に説明され、数値やデータで表現することのできる量の世界である。
> 「いま・ここ・私だけ」の主観的な意味や価値を、「いつでも・どこでも・誰でも」共有できるような客観に転換するのが、科学である。いきなりビッグデータを集めてAIで解析しても、新しい価値は創造できない。意味、質を問わなければイノベーションは生まれないからである。データの背後にある意味や価値、またどのような目的でデータを使いこなすのか、という人間のアートの力に立脚することを忘れてはいけない。「考える前に感じる」。その順番は逆ではない。それは、経営の世界でも同様である。
> 暗黙知と形式知の相互変換プロセスをモデル化したSECIモデルは、新しい意味や価値の集合的な創造、つまり、組織的イノベーションプロセスを原理として説明した動態モデルだ。
> DXそのものが目的化してしまい、現場が疲弊してしまっているという企業は多いが、ヤマハ発動機もまさにその状況に陥ったのである。生産技術本部長の茨木康充は当時を振り返って「現場にほうりこまれて油まみれになって現場の人たちと仕事してきたことを思い起こせば、三人称しか存在しない〝世に蔓延するDX〟からは知識は生まれないのは当然だ、ということに気がつきました。現場の見える化や帳簿類の電子化だけでは、管理項目は増え、何かあってはいけないと保険のための操業時間も増え、経費も在庫も増えていき、現場のモチベーションは下がる、という負のサイクルが加速するだけです」と語る*8。
> 現場には豊かな暗黙知の蓄積がある。ところが、現場のメンバーが不良の原因について何かひらめいて提案しても多くの事前効果検証の宿題が帰ってくる。不良や故障原因に自信が持てずに対策会議が長くなり、結局、経験の長い人や声の大きい人の意見に落ち着く。現場の暗黙知がなかなか活かされない状況があることに、現場のメンバーとともに油まみれになって働いた経験のある茨木は気がついたのである。
> 1990年代、知識経営のブームが来たとき、企業はこぞってIT投資を行い、情報を効率的に共有、蓄積、管理する「ナレッジマネジメント」に、熱心に取り組んだ。それは、形式知である情報の体系化や共有のマネジメントにすぎなかった。SECIモデルでいえば、起点となる「共同化」「表出化」を飛ばして、いきなり形式知を集合知に変換する「連結化」からスタートしたようなものである。既存の形式知を集めて、共有して、編集することにももちろん意味はある。しかし、新たな知識の創造、イノベーションの原動力に寄与するものではなかったのだ。これは、先述したヤマハ発動機のDXの事例で触れたとおりである。
> 世界で初めて、知識創造理論を経営実践に導入したエーザイは、全世界の社員が就労時間の1%(年間2・5日 間) を患者とともに過ごすことを奨励している。CEOの内藤晴夫は、「『共同化』と呼ぶ活動を長年続けてきた。アルツハイマーの患者様やご家族によって語られない憂慮を、時間を共に過ごすことで体験し、実践につなげている」と語る* 12。共同化における身体性を伴う直接経験によって、外から知ることもできなかった患者とその家族の 喜怒哀楽 という暗黙知が身体に染みこんでいき、それが、SECIスパイラルを起動する契機となる。共同化における高質の暗黙知獲得が集合的な実践知創造プロセスの質を高めているのである。
> さらに、暗黙知と形式知の相互変換スパイラルは、単に一回転して戻ってくる円環運動ではない。暗黙知と形式知は、4つのフェーズを経て変容(transformation) していく。したがって、そのプロセスは螺旋状に動く* 13。しかも、いつも上昇方向とは限らず、スパイラルダウンすることもあれば、うまく次のフェーズに進めず停滞することもありうる* 14。
> SECIスパイラルの方向を規定するのは、矢印が向かっていく共通善にある。SECIスパイラルの起点は先述したように、共感(相互主観) である。さらにSECIプロセスのフェーズごとの活動を豊かに充実させるとともに、フェーズからフェーズへの転換を促進するのはリーダーシップである。
> 両極端で相反するように見える二項は、相互補完的であり、暗黙的にはグラデーションで地続きにつながっている。
- このつながりを掘り当てるために対話によって価値観を共有する必要がある。対話というのは、個人の暗黙知(価値観)を表出させることで共同させることなのかも。
> いずれかを捨てて、もう一方に甘んじるという安易な選択を続けていては、新しい道は開けない。もう一つの選択肢も視野に入れながら、とことん悩み抜くと、その2つが異質であればあるほど、二項のいずれとも異なる新しい道が見えてくる。違和感から逃げずに、相違点と共通点を徹底的に突き詰めるのだ。
> 戦略論の大家リチャード・P・ルメルトも、「解決策が二者択一ということはめったにない。ほかにも必ず策があるはずで、他の選択肢を探すか想像しなければならない。侵攻か封鎖か、A社を買収するかしないか、という白黒のはっきりした選択は、短絡的な部下か既得権益を持つ関係者があらかじめそのように仕組んでいるのだ* 21」と指摘する。
> 対立軸で分けられている二項の両極端を活かし、その葛藤やせめぎ合いから逃げずに、創造的に新たな道を見出す二項動態は、矛盾する2つを絶対に相容れない、排斥し合う関係と捉える弁証法よりは、陰陽の関係と近い。
> 戦略的ナルシシズムとは、自信過剰やあきらめから、文脈を無視し自分が望むように認識し、希望的観測と自分勝手な解釈によって短期志向で政策や戦略を決めてしまうことを表している。状況が要求している方向よりも、それらを取りまとめる担当者たちが選好する方向が優先されてしまう。これらの傾向は、『失敗の本質』で描写した日本軍の姿やベトナム戦争時の米国国防長官ロバート・マクナマラ、あるいは不祥事や不正を起こしてしまった企業の姿に重なる。他方、相手の立場を歴史、政治、社会、文化を含めて理解し、刻々と変わる文脈の本質的な意味を洞察できるのが「戦略的エンパシー」だ。
> この主観的時間である「幅のある現在」と身体記憶などの豊かな暗黙知によって偶然性を必然に変える力であるセレンディピティが、観念論的に論じられた際の弁証法では注目されることはないだろう。
> われわれが提唱する二項動態とは、一見矛盾や相反する事柄を状況や目的に応じて、異質な両極端の特質を活かし、跳ぶ発想で新たな地平を見出すことを意味している。物事や問題を「あれかこれか」で捉える二項対立(dichotomy) ではなく、「あれもこれも」の二項動態(dynamic duality) で、状況に応じて何をなすべきかを機動的に判断し、行動する「生き方」を指している。
> 組織的知識創造理論は、経営学と哲学を綜合することに挑んできた。知の創造を追求するためには、知を主要命題とする哲学の知見を活用するべきであるからだ。
> 二項動態において、「あれもこれも」へと綜合し、新たな価値創造へと向かうベクトルの先は共通善(アリストテレス哲学) であり、そのプロセスの基盤となるのは相互主観性や本質直観(フッサール現象学) だ。そして、そのプロセスを促進するのが実践知リーダーシップ(アリストテレス哲学、プラグマティズム) である。
> 動く現実のなかで、一見矛盾するように思える二項を「あれもこれも」とダイナミックに綜合していく方向性を規定するのが、共通善である。
- 第5 の軸
> たとえば、「よいクルマ」という普遍的な概念は存在しないため、「何がよいクルマか」という問いにエピステーメは答えられない。テクネはクルマのつくり方の知識であって「よいクルマ」を追求するわけではない。フロネシスは、「よいクルマとは何か」と「どのようにしてつくるのか」を綜合する知識である。
> 1.善い目的をつくる 何が組織と社会にとって善いことかを示す 2.現場で本質を直観する 目の前の現象の背後にある意味は何か、コンテクストや問題の本質を洞察する 3.場をタイムリーにつくる 共感を通じて新たな意味を創造できるよう、公式・非公式な場(共有された動く文脈 shared context in motion)を絶えず創り出す 4.本質を物語る 物語やメタファー(隠喩)を使って、わかりやすく、物事の本質を伝える 5.物語りの実現に向けて政治力を行使する 人々の力を結集し、あらゆる手段を駆使して、物語りを実現する 6.実践知を自律分散的に育む、組織化する 組織のあらゆる層に、徒弟制やメンタリングなどを通じて、実践知を育成する
> フロネシスつまり実践知は、共通善の実現に焦点を当てて行動する高質な暗黙知であるともいえる。それは、戦略を持続的に実践するための身体化された哲学や行為を指す。経験から生み出された内在的な倫理や徳である。
> 人と人との関係性の最小単位である二人称とは、主観を持つ者同士が、関係性のなかで相互作用し合って、「われわれの主観」を醸成することだ。「われわれの主観」という言葉自体が、「われわれ」と「主観」という相反しがちな二項を動態的に綜合した意味を持つ。フッサールは、この関係性を「相互主観性」と呼んだ。
> しかし、人間は成長するにつれ、知性が発達し言語を習得する。さまざまな知識を得て、相手を対象化するようになる。自我の芽生えである。他者との関係は変化し、「彼・彼女・それ」となった対象を自己と区別し、言語によるコミュニケーションを成立させる関係性となる。これをフッサールは「能動的相互主観性」、ブーバーは「我-それ」関係と名づけた。
> 問題は、次の段階である。知性が発達し、言語を覚え、自我が芽生えたわれわれは、再び乳児のときのように他者と主客未分となる「我-汝」関係を実現できるかが問われる。ミハイ・チクセントミハイが提唱したフロー状態(ゾーン) のように、他者と向き合い、無心の境地になって自我を解放すれば、それは可能だ。現象学者の山口一郎によれば、エゴ(利己) を捨てることができれば、知性と感性を綜合できる* 56。その関係性は、人間との共感だけでなく、スポーツ、芸術などあらゆる物事において成立しうる。
> 成人における「我-汝」関係とは、相手への単なる同感ではなく、他者との知的コンバットを経て「われわれの主観」に到達するプロセスである。これは、忖度や妥協を超えた厳しい性質を持つ。「
> また、長年、経済学の影響を大きく受けてきた経営学は、主流派経済学と同様、静的な前提を置き、演繹的で分析的な性質を持っていた。その代表格が、マイケル・ポーターである。その学問体系の安定性を脅かすような動態的な現実を除外し、数学化、モデル化によって閉鎖的に閉じた学問となっていた。
> また、ダイナミック・ケイパビリティのプロセスは事業機会の感知から始まるが、感知するものを三人称で客観的に対象化しようとしている。先述したように、知識創造理論における最初のプロセスは、人、モノ、環境への無意識の全人的共感から始まる。主観的に身体を伴う直接体験をしたり、相手の立場に立ったりして暗黙知を獲得・共有する。そこから、二人称で意識的に意味や価値を共創することが、知の創造プロセスの起点だ。
> ダイナミック・ケイパビリティの課題は、意味や価値を問う「哲学」を理論に組み込むことができていない点にある。ティースは、経営戦略論において最も根本的な問いは「企業が生み出すキャッシュフローの固有の源泉とは何か」であるとする* 65。われわれの知識創造理論における根本的な問いは、「われわれはなぜ存在するのか」という哲学的問いの追究そのものだ。
> 知の型とは、変化する状況のなかで文脈を読み、判断し、行為につなげるための思考・行動様式のエッセンスであり、現実からのフィードバックによる自己革新プロセスが組み込まれている。
> パーパスは、「生き方」に関する問いを、日々、自らの組織、メンバーに厳しく課すことになる。パーパスは自組織をストレッチさせるような共通善、大義を志向するものであるべきだが、同時に現場・現実・現物の只中で実践的に追い求めなければならない。
> 二項動態経営を行う企業は、外部環境の変化に対応して、パーパスとしてのめざすべき共通善をアップデートし、それを実践し、同時に相互作用を通じて、環境を自ら創造していくことで、自己革新を遂げている。
> 定款に盛り込むことは、別の意味もある。敵対的買収を防ぐ効果である。株主総会での承認で定められる定款は、株主も当然コミットしなければならず、企業理念としてのhhcに反するような事業を行うことは決してできないからである。
> 二項動態において、ブレークスルーをもたらすイノベーションの種(アイデアやコンセプト) が生まれるかどうかは、忖度や妥協を許さない知的格闘(コンバット) とも呼ぶべき率直な対話ができるかどうかにかかっている。
> 組織には慣性が働き、絶えず攻めより守りを優先する官僚主義の方向に向かう。過剰計画、過剰分析、過剰規制は、その作用を強化し、前例主義や内向き思考を生む。閉鎖的で固定化された組織では、創造性、したたかさ、野性味が劣化してしまい、イノベーションは起こせない。  だからこそ、多様な知を組織内に内包して、意図的に組織の壁や地位・立場によるヒエラルキーを壊し、摩擦を起こし、葛藤する場を整備するのである。お互いが全身全霊で相手に共感するとともに、その異質性をぶつけ合い、お互いを活かしつつ、新たな知を共創する。組織に意図的にカオスや不安定性をつくり出し、創造性を高めるダイナミックバランスを目指す。
> 重要なのは、知が人の生き方にもとづいているということだ。先述したように、知の源泉は、全身で直観する暗黙知だ。形式知だけを組み合わせても審美的な製品も事業も生まれない。社内に人材や事業の種がなければ、オープンに社外とスクラムを組んでいくのである。知の体系が豊かになるかどうかは、関係性の暗黙的な質量を充実させられるかどうかにかかっている。意味のつながりに還元していけるかどうかが重要だ。
> ない。経営とは、未来をつくる意味創造に向かう人々が、環境変化に応じてともに織りなす営為であり、集合的な「生き方」が投影される。
> 二項動態経営では、観念論で相手を倒すのではなく、異なる主観や思い、能力を持つ者同士が妥協なくぶつかり合って、暗黙知を源泉とする新たな知の創造、イノベーションを起こしていく。動いていく現実の只中で、妥協なき葛藤から、「こうとしか言いようのない」という「その都度の最善(より善い)」を無限に追求する。ときには「清濁あわせ呑んで」政治力も発揮して、実行にこだわる。それは、試行錯誤しながらともに前進していく創造原理としての生き方であり、二項動態による集合「実践知」創造なのである。
> 異質性を組織内部に取り込むことは、デジタルツールの発達によって生じているエコーチェンバー現象、フィルターバブルなどが引き起こしている内向き思考、現実逃避や同調圧力を脱却する契機にもなるのである。
> 多様性を真に活かすには、数を集めればよいのではなく、多様な知が遠慮なくぶつかり合うスクラムを組むことでしか達成できない* 14。
> 津田は、「(チェックと雑談) 両方、必要なんですが、身体経験をともにしていると、決してチェックリストの積み上げからは至れないような品質が生まれるんですね」と語る。勉強会や研究会の成果はどんどん国際学会などで発信してもらうようにしたが、振り返ると、そのような活動が結果としてすべて役に立ったという。津田は、そのような活動の時間に全体の2割くらいを充てた。
> 「中小企業ではそれが当たり前です。社長に直接プレゼンするのも同じです。企業は売上高 30 億円くらいの規模がいちばん元気がある。それが100個集まれば3000億円になる。アイリスは中小企業の感覚を持った開発プロジェクトが集まっている。そういう仕組みの企業です* 26」。これは大山会長の言葉である。
> 二項動態は、自己変革を可能にする。しかし、これは過去の完全なる破壊の上に成り立つものではない。歴史的に蓄積された組織の身体記憶ともいえる潜在的な知の土台の上に、それらの多様な結びつき、あるいは外部の異質なものとの新結合から、新たな知に「跳ぶ」のである。その意味で、過去と現在、未来を綜合する変容(transformation) の「物語り」なのである。
> 意味とは、相互に異なるもののなかから類似性を探求し、差異性を認識しながらも、「こうとしか言いようがない」という唯一の同一性に綜合する二項動態プロセスから生成されるものである。
> 官僚的性質を持つ機械的組織と有機的組織の議論は、古くて新しい*7。つまり、科学がいくら発達しても、経営が人間による営為である以上、「大企業病」はあらゆる組織を襲う。だからこそ、過去の成功に過剰適応せず、組織の慣性に逆らって自己変革し続けなければならない。そのために、創造性へと導く二項動態経営、そして、「戦略の人間化(ヒューマナイジング・ストラテジー)」が必要なのである。
> 経営とは、未来をつくる意味創造に向かう人々が、環境変化に応じてともに織りなす営為であり、集合的な「生き方」が投影されるものでもある。経営にサイエンスが必要なことは論をまたない。しかし、生き抜く能力としての人間の野性や、創造力を活性化させるアートの側面を決してないがしろにしてはならない*8。
> ヒューマナイジング・ストラテジーとは、論理分析ではなく、まさに人間の「生き方」の「物語り(ナラティブ)」である。創作を巧みに入れ込んで人間の生き方を問うのが、ヒューマナイジング・ストラテジーである。そこには、What だけでなく、人間の生き方を示す Why を組み入れる必要がある。「われわれは、なぜ存在するのか」という存在目的を示すことにより、関係性が広がり、人の記憶にも残る戦略が生まれる。もちろん、経営戦略を実践する段階においては、科学的手法を取り入れる必要があろう。しかし、最初に「何のために」という生き方やロマンがないと、内発的動機は生まれない。戦略は実行されず、結局、形骸化してしまうのである。
> モノマネの道具や流行のツールに踊らされてしまう事態を、経営学者の楠木建らは3つのトラップになぞらえて分析している。旬の経営手法やツールの導入が問題解決につながると思い込ませる「飛び道具トラップ 」、あるいは「○○革命」「100年に1度の○○」 などの言葉で時流に乗れとあおる「激動期トラップ」、時間的・空間的に遠いもの(昔のもの、海外のもの) が良く見えてしまう「遠近歪曲トラップ」にはまる企業は多い* 19。
> しかし、社会学者の佐藤郁哉によれば、PDCAは継続的な業務改善には向いているものの、経営管理活動には必ずしも適さない手法であるという。佐藤は、PDCAは「計画のためのP(絵空事)」と「評価のためのC(マイクロマネジメント)」に陥りやすいと警告する* 20。
> 多くの企業では、資産効率や資本生産性を測る指標として、在庫回転率(売上原価 ÷ 在庫金額) を重視している。一定期間内に在庫が入れ替わった回数を示す在庫回転率を高めるためには、在庫を圧縮する必要がある。  一方、トラスコ中山では、顧客から受けた注文のうち、在庫から出荷できた割合を表す在庫出荷率が重視される。在庫から出庫することで、納品リードタイムを短縮することができ、顧客に満足してもらうことができるからである。一般的な在庫の指標ではなく、顧客目線に立って意味のある指標をあえて重視しているのである。在庫出荷率の重視は、トラスコ中山の戦略という観点から、在庫という会計数値に意味を持たせていることにほかならない。
> こうした活動を徹底したことによって、2001年、キリンは高知県内シェアでアサヒからトップを奪還した。高知支店が復活すると、本社や他の支店がこぞって高知県に視察に来るようになった。本社スタッフは、高知支店の成功事例を横展開することで、キリン全社の業績回復を図ろうとしたのである。本社スタッフは、高知支店の営業担当者たちが、料飲店や酒販店に足しげく通っていることに気づいた。  キリン本社はさっそく、全国の支店に向けて、料飲店や酒販店の訪問件数という数値目標を設定した。測定可能な訪問件数を目標とすることで、営業を科学化し、業績回復を意図したのである。なかには「高知に学べ」の掛け声の下、高知支店のやり方を模倣しようとした支店もあった。しかし、「何店舗回れ」あるいは「訪問数を上げよ」と数値目標を掲げたところは、軒並みうまくいかなかったという。  高知支店では、最初の段階で「なぜ高知支店は存在するのか」という問いで自分たちの存在目的を明確にし、理念が実現した後の将来像を社員間で共有した。初めに「何のために」という生き方やロマンがあったといえる。そのうえで、料飲店の訪問件数という数値目標を設定し、それを徹底的に実践した。  こうしたプロセスを踏んだことで、たとえ成績が落ち込んでも、現場で動きながら考え続け、理念を実現しようとする覚悟が現場の営業担当者たちに芽生えていった。存在目的やあるべき姿が共有されていたからこそ、メンバーたちは執念を持って仕事に当たることができたのである。  一方、自分たちの存在目的を明示せず、将来像を共有することなしに数値目標だけで業績回復を図ろうとした支店は、高知のような成果を上げることができなかった。単に訪問回数を増やしただけでは、業績は回復しない。顧客を訪問することで実現...
> 会計数値などの客観性なデータは、確かに外発的動機につながる可能性がある。しかし、科学的データが内発的動機に結びつくことはない。外発的動機が短期間で効果を発揮することもあるかもしれないが、心の中の動機、すなわち内発的動機をかえってそいでしまうことがあることを忘れてはいけない* 37。
> 2022年度の株主総会において、同社は定款に企業理念の実践を記載することを決定した。その目的は、社会の発展と企業価値の向上をめざすというオムロンの経営の根幹は、今後も普遍であることを明確にすることにあった。
> エーザイはhhcにおいて、「利益は目的である共通善の結果として得られる」と表明している。利益と共通善の関係を明確にしたうえで、利益の獲得をめざす姿勢を示しているのである。同社は、経営活動の先行指標あるいは結果指標として、資本生産性など財務・会計指標を徹底追求している。
> 本書は「日本的経営に回帰せよ」という懐古主義を主張するものではない。ただし、過度に自己否定したり、自信喪失する必要もないと考えている。むしろ、「日本的経営」に対するステレオタイプのイメージを捨て再創造することを提言したい。
> 岩尾が危惧しているのは、「経営技術の逆輸入は、日本企業の経営に実害を生むこと」「強みを捨てて弱みを取り入れるという愚行に走ること」「『本当に学ぶべき対象』を見誤らせてしまう」ことだ*3。  経営学者ウリケ・シェーデも、悲劇バイアスにかかっている日本が早く悲観論から脱却するべきだとエールを送る(『シン・日本の経営──悲観バイアスを排す』日経プレミアシリーズ)。
> 写真フィルムと化粧品は商品としては互いに異質で非連続だが、知識体系においては地下水脈でつながり、連続性がある。知識ベースで技術をとらえ、常識的には結びつかないもの同士を二項動態してイノベーションを実現し、自己変革を達成したのである。
> クリエイティブ・ルーティンとしての大きな特徴は、一見相反するような行動を偏ることなく、バランスをとりながら行っている、ということであった。実践知とは「あれかこれか(either/or)」の二項対立ではなく、「あれもこれも(both/and)」の「二項動態」的な思考や実践である。新たな価値を生む創造的な実践には、この二項動態が欠かせない。
> 同じ土俵に立って人々の可能性をとことん信じる一方で、相手と真剣勝負で向きあい、当事者、実践者としての覚悟を問うことを追求する。ヤマハ発動機の茨木やJAXAの津田が実践していたように、誰もが持つ潜在能力や自律性を信じ、ともに取り組むことで、人間が本来持っている野性を目覚めさせていく。
> 促す。ホンダの三部敏宏は、ワイガヤの本質は侃々諤々の議論だけではなく、「書くことにある」と語る。真剣勝負で壁一面に言葉を書き出し、言葉の海のなかで、集合的に本質をともに直観する瞬間があるのだという。
> まずは、他者と全人的に向き合い、二人称の関係性を築く。人種、国籍、宗教、バックグラウンド、役職、肩書、地位、性別、年齢に関係なく、相手を尊重する。多様な人々の個性を大切にしたのである。
> また、このスクリプトは、「こうしたら絶対うまくいく」ということを示すものでもない。重ねて述べれば、それは文脈や状況変化に応じて繰り出すべき行動であり、そこでは〝ちょうどよい〟バランスを追求することをあきらめてはならないだろう。
> 他方、集合的、社会的な知へと変換していくためには、暗黙知を源泉に、徹底した形式知化を極めることも重要である。集団思考や同調圧力によって、共感が忖度や妥協、同調に変質してしまうことも徹底して避けねばならない。それは、中根千枝が『タテ社会の人間関係』で、山本七平が『空気の研究』で、土居健郎が『「甘え」の構造』で警鐘を鳴らしてきたことでもある。
> 絶対的な善や真理はなくても「より善い」にともに向かおうではないか。衝突や軋轢が生じても、「われわれの主観」という共感を媒介に、あらゆる知を結集しともに時空間をつくっていく。泥臭く、しぶとく、ダイナミックに相互作用し続けていれば、地に足がついているけれどもこれまでの延長線上ではないイノベーティブな発想に出合える瞬間が訪れるだろう。
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